金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

どうよう

童謡

子供のころから音楽が好きだった。小学校1年生くらいのとき、音楽の授業で鍵盤ハーモニカを習った。先生のピアノ伴奏に合わせて「チューリップ」とか「きらきら星」とか簡単なメロディを弾くのが好きだった。「かえるの合唱」が特に大好きで、皆んなで輪唱するのが楽しかった。

お小遣いで初めて買ったCDは童謡のCDだった。童謡といっても、音楽の授業で習うような古典的な曲だけではなくて「君をのせて」や「翼をください」などの合唱コンクールの課題曲になるようなポップソングも入っているコンピレーションアルバムだった。

当時、周りの友達と初めて買ったCDの話をすることがあって、皆んなは流行りのアイドルとかバンドとかのCDを買ったと言っていた。私は恥ずかしくて本当のことを言えず「あまりよく覚えていないけどモーニング娘。かな?」とか言ってはぐらかしていた。

初めて買ったCDは童謡のコンピレーションアルバムです、と言えるようになったのは、だいぶ大人になってからの話だ。好きなものを好きと言うことが苦手な子供だった。まあ今でもそんなに変わってはいなくて、好きという感情を表現することはあまり得意ではない。

動揺

誰かに好きという感情を向けられること。これもあまり得意ではない。好きな人からの好意だったら嬉しいけど、それでもどのように扱えば良いのが分からなくなるときがある。苦手な人だったり、どうでもいい人からの好意はもっとそうだ。ただ動揺して終わるだけだ。

一方で、自分の中にある好きという感情は最早それだけが生きるための原動力なのではないかと最近は思う。好きという気持ちだけでしか心も体も動かなくなりつつある。嫌いという関心も持てなくなりつつあり、物事の選択は好きか無関心かの2択で落ち着きそうな雰囲気がある。好きという気持ち以外で何かに対して関心を持つこと。それを優しさと呼ぶのではないだろうか。

同様

思っていることは思っているだけでは絶対に伝わらないことを私は知っている。好きだと思っているのであれば、そのことを何らかの行動で示さなくてはならない。犬が尻尾を振るように、猫が顔を擦り付けてくるように、動物たちと同じ様な感情表現ができたら良いのに。

人間にとってのそれは、もしかしたら言葉なのかもしれないけど取扱注意すぎて使いかたが難しい。話すこと書くこと歌うことなどなど、表現する方法には色々あって、人によっては向き不向きもある。皆んな器用に生きてるなと感じる。私はたまにどうしようもなくなる。皆んなと同じ様にできない。