金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

おとな

恥ずかしいから恥ずかしいことがバレないように振る舞う。嬉しいけど謙遜とかして嬉しくないフリをする。申し訳ないとは全く思ってないけど申し訳なさそうにして少し大袈裟に謝る。感情を隠すような行動を取るようになったのはいつからだろう、みたいなことを考えている。

それは良い嘘でもあり悪い嘘でもあると思う。自分にとってもそうだし、相手にとってもそうだ。バレなければ嘘にはならないと聞く。でもたまにこの手の嘘はバレて欲しいなと思う。実はバレているときもあるのかもしれないけど、いちいち指摘しないだけなのかもしれない。我々はもう大人だから。

自分がついたことがある嘘と似たような嘘をついている人を見ると親近感が湧く。大袈裟に謝っているのに全く相手に伝わってない人や、感情を殺して冷静に振る舞っている人を見かけたとき、もしもその場にいいねボタンがあったら、とりあえず7回くらい連打してあげたくなる。

早く大人になりたいと言う子供をたまに見かける。自立心が強くて凄いなと思う一方で、もっと子供らしくワガママにしておけば良いのにとも思う。大人になんかならなくてもいいから、今しかできないことをやればいいんだよ、と無責任なことを言ってあげたくなる。でも実際は「そうなんだ偉いね」としか言えない。私は嘘つきで責任逃れで薄情な大人だから。

もしも子供の頃に戻れるのであれば、15歳くらいのときに戻りたい。戻って何をするという訳ではないけど、何となくその時期に人生が分岐したような感触があるから。それは部活や受験、人間関係によるもので、後悔しているという訳ではないけれど、今だったらもっと上手くやれるはずだと思ったりしている。でも実際に戻れたとしても、ちょっとマシになるくらいで、結果的にはあまり変わらないのかな。

誰かを励ますことも、誰かを慰めることも、何もしないほうが良いのかなと思える。かつ、何もしないことで誰かを傷つけてしまうかもしれないし、誰かを裏切ってしまうかもしれないとも思える。そのことが単純に怖いから、本当にやりたいと思える行動を取ることができない。

今これを書きながら、さっき書いたことに誤りがあったことに気付いた。なので訂正したいと思う。私は嘘つきで責任逃れで薄情で臆病な大人だ。その辺を歩いている子供たちのほうがずっと大人だ。

20240325

今後のために、という文言から始まる個別チャットをもらった。今朝私から出した内部連絡のメールに、その人にとっては不適切な表現だと感じる部分があったらしく、昔はあーだったこーだったみたいなことが書かれていて、だから誤解を招くかもしれない、とのことだった。そうなんだ、としか思わなかった。私にどうして欲しいのかが書かれてなくて、こういう人って本当に何を考えているのだろうと思った。

そもそも冒頭にあった「今後のために」という文言を読んだ時点で、チャットの内容が頭に全然入ってこなかった。もう今後なんて無いんだけどなあ。今後のためを思うなら、個別チャットではなくて全体メールで「この表現はよろしくないです」と周知すればいいのに。変なのって思ったけど、既読無視はしないように心掛けているので、スタンプだけは返しておいた。脈略がひとつもない、いいね!みたいなニュアンスのスタンプを。

今日は少し風邪気味だったから在宅勤務で本当に良かった。電車には乗れないけど、まあ働くことはできそう、という体調だった。お昼休憩の時間で熱めの湯船に浸かった。体温を上げればなんとかなる、というマインドが昔からあって、インフルエンザとか急性何ちゃら炎みたいなガチめの病気には効かないけど、個人的にはこれで何度か乗り切れた場面があった。この民間療法が効かなくなったとき、私は老いたことを自覚するのだと思う。

今日はたくさん食べて、たくさん寝ようと思う。バファリンも買ってあるし、寝る前に飲んでから寝ようと思う。

20240323

6月末の退社が決まったけど7月からの仕事が決まっていない。もしも7月からの仕事が決まらないまま退職になってしまうのだとしたら、いくつかやりたいことをやりたいなあ、みたいことを考えている。

広島に行ってみたい。僕は東北の出身だからか3.11の傷が未だに癒えていない。そのほとんどは原子力とか放射能とかの難しい物事に起因するもので、それ自体を知りたいというよりかはその後どうなったのかを知りたい。起きてしまったことは変えられないはずだから、その後にどうするか、どうしたいですか、みたいな話に興味がある。だから原爆ドームを見てみたい。百聞は一見にしかず的な、そういう漠然とした理解をまずは期待している。もちろん長崎にも行ってみたい。

あとは宗教学を学んでみたい。私は宗教という感覚がよく分からなくて、それがどういう感覚なのかを知らない。この先にもしも空白期間が生まれてしまうのだとしたら、その感覚をちょっとだけ経験してみたいなと思う。信じるものがあるという心強さを、それがどういうものなのかを肌で感じてみたい。神さまという言葉には実体がない。だからこそ解釈が人それぞれ別れるのだと思う。私以外の誰かに、私が考える読書感想文は書けない。そんな感覚が宗教にもあるから、文学はもちろん哲学とか史学とかに見られる奥深さみたいなものがあるんだろうなと思う。

少し遠くに行きたい、知りたいことを知りたい、みたいな感覚がずっと胸の中にある。拠り所なんか全く無い自分だから、皆んなも同じ不安の中で生きていて欲しいな的なことをたまに考える。空白と呼ばれる期間があっても別に良いじゃんと個人的には思う。頼むから放っておいてくれませんか?と思う。僕をディスるのであれば、君にもその覚悟があるんだろうな?とも思う。

今日という1日の終わりに、そのようなことをずっと考えていた。まだ肌寒いままだけど、2024年の3月はもうすぐ終わってしまうみたいだった。

暇なとき

子供のころ1+1=2と教わった。でも学び続けていくうちに、そうとは限らないのかもしれないと気付いた。頭が良いとか悪いとかの話ではなく、単純に何も知らなかっただけだ。大人になるということはたぶんそういうことなんじゃないかなと思う。

相手には伝わらないだろうという前提で話し始めることがある。無駄な体力を使いたくないとか言って最初から諦めている感じ。あまり良くないと思うし、ダメな大人になったなとも思う。

一般的なRPGではレベルが上がるとHPの最大値も上がる。ドラクエでもそうだしポケモンでもそうだ。でも現実は違う。仮に、年を取ることをレベルアップに置き換えるとするなら、ある年を境にHPの最大値は減少していくものだと思う。HP以外の能力は上がっていくのかもしれないけど、体力は年々減少しているような感じがする。

自分より酷い環境にいる人を見て安心することがある。自分より恵まれていない人たちを想像し、勝手に彼らを憐むこともある。人は皆んな平等だというなら、下のほうを覗き込んでしまう自分は何様なのだろうか。上を見ても下を見てもキリがないことは同じはずなのだから、どうせ見るなら上を見れば良いのに、と自分自身に対して思う。

単純に上を見るのが怖いだけなんだと思う。下を見るより上を見るほうが暗い気持ちになるから。月とか太陽とか殆どの明るいものは上のほうにあるのに、何故か光が見えないような気がする。だからと言って下を見ていい理由にはならないのだけど、何故か下を見て安心してしまう自分がいる。勝手すぎる話だ。

単純に暇なのだと思う。大人になるとかならないとか、上だの下だのとか、あれこれ考えてしまうのは暇だからだと思う。自分にとっては現実逃避とかではなくて、シンプルに暇だから考えてしまう。でも次に繋がる行動までは落としきれない。答えのない自問自答を繰り返しているだけ。

たまに自分は最低な人間だなって思う日がある。例えばこの記事のようなことを考えてしまった日。暇だから下を見て安心し、上は怖いから見ないと諦める。こんなダメな大人になってしまったことを正当化しようとし、結局は上手くできず時間だけが過ぎた日。

20240320

もう既に終わっているみたいな気持ちでいる。前にもこの気持ちをブログに書いたっけな、と思ったら本当に書いてあって驚いた。終わっていくことは割と前向きなことなんじゃないかなって最近は思う。終わらせることができるのに、終わってしまわないように繕っていた。意味がないのに意味があると信じ込んでいた僕だ。

今の僕は前向きな気持ちでいる。今日が祝日だからそう思っているだけかもしれない。僕は結果論を信じている。

家族や友達とまた会えることだったり、毎日の電車に問題なく乗れることだったり、コンビニでコーヒーが買えることだったり、それを美味しいと感じる自分の味覚だったり、誰かに笑ってもらえることだったり、たまに暖かい日があることだったり、道路の真ん中を走る人を見かけることがあったり、深呼吸をしたら何となく落ち着いた気分になったり、朝方に野良猫たちが喧嘩していることだったり、そういうのが幸せなんじゃないかなって思う。

終わらせていきたいことがいくつかある。誰かに優しく思われたくて優しそうなフリをしていたけど、自分に対して優しくできていなかったように感じる。そういうのをまずは終わらせていきたい。終わっていく僕を君は笑うだろう。まあでも笑ってもらえるのであれば、それはそれで別に良いのかなとも思う。

前向きな気持ちなのにそれをうまく表現できない。だからいつかできるようになりたいと思う。終わらせていきたいことがいくつかある。今は本当にその気持ちだけで生きてる。

君がいてもいなくても

いずれにせよ生きていけない、という歌をU2が歌っている。With Or Without Youという曲で。

その曲を書いたのはボーカルのボノさんだったと思う。ボノさんは熱心なクリスチャンで、曲の中で歌われる「君」という言葉は「神様」のことを指しているらしい。具体的にはイエス・キリストのことを指していると思われる。

神様がいてもいなくても生活は辛いものだ、ということが歌われているのだと私は解釈している。私はクリスチャンではないし、神様の存在もあまり熱心には信じていない。でも何故かこの歌で伝えたかった気持ちは分かるような気がする。

私にとって「君」という存在は必ずしも神様ではない。もう会えなくなってしまった人や、別れた人のことが頭に浮かぶ。その人がいてもいなくても生活は続いていく。生きていく自信が全く無いのにも関わらず時間だけが過ぎていく。そのことがたまに辛くなる。本当に何もできないなあ、みたいな感じで。

U2は世界的に有名なバンドだけど、生きていけないとか、そんなことも考えるなんて意外だなあ、と初めてこの曲を聴いたときに思った。With Or Without Youが発表されて数十年後に、国も違っていれば会ったこともない私の耳に届き、ほとんど神様の存在を信じていないような私が共感してしまったという事実が、本当に謎すぎて仕方がない。

必然と呼ぶには綺麗すぎて、偶然と呼ぶには泥臭すぎる。謎というブラックボックスの中身を想像し、不思議だなあと考えるくらいがちょうど良い気がする。

いずれにせよ生きていけない、そのことに変わりはないのである。でもこの曲を聴いている時間は、U2と同じマインドで過ごせているような気がして少し勇気が湧く。ひとりぼっちではないのかもしれない、とちょっとだけ勘違いできる。君がいてもいなくても。

青と白の弁当箱

コンサルしてしてー

やりたいことは人それぞれ違う。できることも人それぞれ違う。あれもこれもやれたら良いのだけど、残念なことにできることは限られている。

コンサルタントになることを志望して会社を辞めていった人がいた。コンサルタントは直訳すると顧問とか相談役という意味になるらしい。簡単に言えば、手や体を動かす仕事ではなく、頭を使う仕事のようだ。稼げる仕事はホワイトカラーであることを私は知っている。だけど私にできることはブルーカラーのものばかりだ。

その人は「大学で経済学を専攻していた」と言っていた。そのときに私は「自分は文学を専攻していたので凄いなと思います」とその人に返事をした。するとその人は「経済学はどこの大学でも学べるから、限られた大学で文学を学んだあなたのほうが凄いですよ」と言ってくれたけど、実際はそんなことないと思う。事実ホワイトカラーになれるほうが凄いじゃないか。

ブルーカラー寄りの私との出会いは、その人の人生の中でどのような意味があったのだろうか。もしもいつかまた会えるのだとしたら、私をコンサルしてくれたりしないだろうか。相談役にもなって欲しいけど、私から払える金額は少ないから、きっと相手にされないだろうな。

A5ランク

良い牛肉というのは格付けされていて、最高ランクの牛肉にはA5ランクが付けられるみたいだ。昔、良い焼肉屋さんでA5ランクの牛肉を食べたことがあるような気がするけど、お酒を飲みながらだったからあまり覚えていない。だから実質食べたことがないのと同じだ。

きっとA5ランクの牛肉は、どんな風に調理しても美味しくなるのだろう。ステーキにしても美味しいだろうし、ハンバーグにしても美味しいだろう。

そしてそれはきっと人間の世界でも同じようなことが言えて、そもそもの基盤が確立してさえいればどうにでもなる世の中だと思う。その基盤というのは、自頭だけは良いとか、身体能力だけ高いとか、何かの能力がひとつだけ突出しているという話ではなく、総合的な能力の高さの話だ。ほぼ間違いなくA5ランクの人間は存在していて、私はその土俵にすら立てないランク外の人間だ。

サンドウィッチーズ

たくさんの種類のサンドイッチが弁当箱に入っていると、見た目が華やかで楽しい気持ちになる。おにぎりも好きだけど、中身が見えないからだいたい全部同じような見た目をしている。だからサンドイッチがたくさん並んでいる弁当箱のほうが華やかで好きだ。

中身を開示することが大切なのだと思う。ピーナッツバターを塗っただけのサンドイッチだとしても、二等分して断面を見せておけば、ピーナッツアレルギーの人はそれを選ばないし、好きな人はそればかり選んで食べるはずだ。

今の私はおにぎりみたいな感じだ。食べてみないと中身が分からない。自分でも中に何が入っているのか分かっていない。私はサンドイッチになりたい。何等分にでも切ってくれて構わないから、私もその弁当箱に入れてもらえないだろうか。