金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

ニフラム

学生のころ、運送業の会社で肉体労働のアルバイトをしていた。学生時代で1番長く続いたアルバイトがこれだった。肉体労働とは言え、1日5時間程度の短い時間だったし、当時はまだ若かったこともあり、それほど辛くはなかった。むしろ部活みたいで楽しかった。

当時の私は20歳前後だった。田舎から出てきたばかりだったこともあり、今よりもずっと活動的だった。いま振り返ってみると、若いうちに肉体労働を経験できて良かったなと感じる。そのときにしか出来ないことをやれていたなと素直に思える。今やれって言われても絶対に出来ない。5時間どころか1時間も厳しそうだ。

そのアルバイトで出会った人の中で、特に印象に残っている人がいる。その人は脱サラして一念発起し、勉強しまくって偏差値の高い名門大学に一般入試で入学した凄い人だった。出会った時点でその人は30歳と言っていたから、年齢は大体10個くらい違っていたけど、大学の学年としては同期だった(もちろん大学は別である)。身長が高く、ガッチリとした体格の男の人だったけど、気がとても小さく、ネガティブに考えがちな繊細な人だった。

その人はよく消えたいと言っていた。死にたいのではなく、消えたいのだそうだ。そして私もその気持ちが分かったから、休憩が一緒になったときはいつも消えたい消えたいと言い合って笑っていた。

その人曰く、ドラクエニフラムという呪文で消えるのが1番望ましいとのことだった。聖なる光に包まれながら人生を無かったことにして貰える、それが良いのだそうだ。ある日、その話を聞いた私は「ニフラムはスライムとか弱いモンスターにしか効きませんよ」と彼に言った。そしたら彼は「僕はスライムより弱いからたぶん大丈夫」と言った。私は「じゃあ自分も一緒に消えますねニフラムはグループ攻撃なので」と返し、彼は「そうだね、ありがとうございます」と言って笑った。

このやりとりを何故か今でも覚えているのだった。あれからニフラムという呪文を聞くたび、誰かが放つ聖なる光に包まれて消えてしまえたらどんなに良いだろう、と考えるようになった。もちろん深い意味はない。ニフラムに関する個人的な思い出である。

彼は今ごろどこで何をしているのだろうか。私には分からない色々な心配事の中で生きているのだろうか。大学は卒業できたのだろうか。

またいつか会えたらいいなと思う。もし彼が消えないでいてくれたら、それだけで私はとても嬉しい。そう言えばあの日、彼に言えなかったことがひとつだけあったのだった。

「ていうか、ニフラムを使える人って現実には居ないっぽいですよね」

あの日の彼は笑ってくれただろうか。現在の彼は笑ってくれるのだろうか。