金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

上善は水のようである

新卒で入社した会社の人事部長は、メガバンクでソルジャーをやっていた経歴があるみたいだった。新規店舗の立ち上げやコンサルタント的な業務などもやってきたらしい。社会のことなんか何も知らなかった当時の私は、典型的なビジネスマンの権化としてその人を認識していたのだった。

初めての接点は確か入社前の事前研修だったと記憶している。採用面接で一度も会っていなかったのは、前任の責任者との引き継ぎ期間だったらしく担当が分かれており、私の面接は前任者によって行われたからだった。

事前研修が終わった後、懇親会が始まる前の隙間時間を使い、私は人事部長へ挨拶に伺うことにした。一度も会ったことが無かったので軽く自己紹介したところ「ああ、〇〇大学の子か」と認知してくれていた。このとき、名門では無いにせよ、ある程度名が通った大学に進学しておいて正解だったなと思った。単純に経歴を認知してくれていたこと自体も非常に嬉しかった。

入社後の新人研修では、数十人の同期と共に3ヶ月間みっちり教育された。新人研修の期間中、新入社員と人事部長は懇親を深めるために一緒に旅行にいくと言う謎の習慣がその会社にはあったのだが、私はそれをしっかりと断った。旅費は援助してもらえるから行かないという選択肢は無い、と他の同期たちは話していたが、自分のお金で自分の好きな人と旅したほうが絶対楽しいはずだから、むしろ行かないという選択肢しかない、と個人的には思っていた。後から聞いた話によると、直近で旅行に行かなかった新入社員は私だけだったらしい。

実を言うと、私はこの人事部長のことが苦手なのである。あまりにも陽キャで優秀すぎるところが無理なのである。そのこともあり、旅行は丁重にお断りされていただいたのだった。

そんな人事部長から新入社員ひとりひとりにポストカードが配られたのは、ちょうど新人研修が終わったころだったと思う。わざわざ手書きで書いてくれたみたいだったので、意外とマメな人なんだなという印象を受けた。

同期のポストカードを見せてもらうと「そのままのペースで頑張れ」とか「個性を大切に」みたいな、手書きだからこそ許される内容の薄いメッセージが書かれてあった。私はほとんど面倒くさいような気持ちで自分のポストカードを見たところ、そこには「上善如水」と書かれてあった。

こりゃまたイキったメッセージが来たもんだ、と鼻で笑ったことは事実だが、よくよく意味を調べてみると大変にありがたい言葉をいただいたことに恐縮した。

水は全ての物を助けるが見返りを求めない。誰も行きたがらない低い場所へと流れ、そこにおさまる。流れる力によっては固い岩石を動かすことだって出来る。上善は水のようである。

どのような想いでその言葉を書いてくれたのかは分からないが、その言葉が私の胸に響いたことは確かだった。今でもたまに思い出し、励まされたような気持ちになるのだから、苦手とはいえ人事部長のことを忘れることはないだろう。

見てくれる人は見てくれるのかな?と感じた経験だった。社会人になってすぐの話だったから、そのときはまだ判断できなかったけど、最近になってようやく、見てくれる人はきっといるのだろう、と少しだけ思えるようになった。だから私もそういう人になれるように善処したい。見てあげられる人になりたい。