金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

違う世界にいるみたいだ

容姿端麗な人を見ると、少なくとも私よりは生きていくのが容易いのだろうなと思う。さらには見た目だけでなく、性格も良く、活動的で前向きな人もいる。そのような人たちの姿を、本来神様が作ろうとした人間の形であるとするならば、私は全く足元にも及ばない。地面を這いつくばって走る虫ケラのようなものだ。

本当に何も出来ないことを、最近は棚の上に置いて無視している。何も変わろうとしていない。自分でも心配になるくらい適当に生きている。周りの人たちは皆んな活躍しているように見える。何か得意なことを持っていて、それを活かしながら生きているように見える。

私が得意な(というかよくやってしまう)ことと言えば、自分に非がないのに謝ることと、誰にでも愛想を振り撒いて嫌われないように努めることだ。何にも活かしようがない。私にこの2つだけを持たせ、この世界に放り込んだ神様は本当にいい加減だし、いたずらっ子だと思う。

しかし、そのようなことを思う私でありながらも、一応は人に優しく在りたいと考えている。困っていそうな人がいれば助けたいと思う。でも実際は見て見ぬフリをすることが多いから、本当に何も出来ていないと感じる。

周りの人たちはどのように私を見ているのだろうか。そもそも視界に入れてもらえているのだろうか。彼らの視界に私が入っていなくても、私の視界は彼らを認識している。私だけ違う世界にいるみたいだ。

何もしてこなかったことが悔やまれてならない。進める方向が限られていることに今更になって気付いた。

BUMP OF CHICKENロストマンという曲を思い出す。当時聴いていたときは中学生くらいだっただろうか。今も少しそうだが、歌詞の意味をちゃんと理解できていないまま聴いていたころだ。

迷子だと自覚したときには既に遅く、不安や無力感だけが手元に残っている。1番悲しいことは戻ることができないこと。間違えているのかもしれないけど、前に進むことしかできない。

ほとんど共感する。曲の最後のほうでは、後向きでありながらも前向きなニュアンスも感じられる。だけど私は未だその境地には辿り着けていない。

確か当時はまだCDが売れていた時代だった。ロストマンのCDも結構な枚数が売れていたと記憶している。売れた枚数だけ共感があるとするならば、皆んなこの無力感を抱えながら生きていたということなのだろうか。そして当時その人たちが抱えていた無力感はその後どうなったのだろうか。今もなお残っているのだろうか。それとも別の何かに変わったのだろうか。

再会はできたのだろうか。