金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

くしゃみしたら左ふくらはぎがつった日

を忘れないようにしたい。その日は友達と飲みに行った。楽しい夜だった。

その友達と私は同い年で、同い年だけど別々の人生を歩んでいる。友達は結婚をしていて子供が2人いる。一方で私は結婚もしてなければ子供もいない。私は仕事のことで悩んでいるけど、友達は仕事のことで悩んでいる暇はないとのことだった。全然それで良いと思った。全然それで良いと思いたいだけだった。

良い夜であったことに間違いはなかった。真剣な話もしたし、くだらない話もした。物理的にほぼ同じ量の時間を過ごしていること以外、我々の間にある共通点なんか何も無いんじゃないかと思えるほど、それぞれが話す話題の毛色は異なっていた。それでも何故か話が噛み合ってしまうことが不思議に思えてならなかった。

2件目のお店に移動するときに「キャッチ選手権」という遊びをした。話しかけてきたキャッチの人の話を聞き、そのプレゼンテーション力を評価するという遊び。話を聞くだけですよ、という前置きを了承してくれたかたを対象とした大会なので、性格が悪い遊びであることは大目に見て欲しい。

そして、その大会に参加してくれた優しい人たちの中の1人に対し、私は余計なことを言ってしまった。そのことを深く反省している。「俺の給料は下がるけど、来てくれるならサービスします!」と言ってたから「赤の他人ために身を削りすぎだと思う。もっと自分の仕事にプライドを持つべきだ。感覚が違いすぎるからあなたの店には行かない」などと言ってしまった。出会って数十秒の人だったのに。もっと別の断りかたがあったでしょうに、と我ながらに思う。自分自身に対していい加減にして欲しいなと思いながらこの記事を書いている。

人間は子供を持つことで初めて人間に成るのだ、みたいなことをたまに聞く。子供がいるほとんどの人がそう言っているのだから、恐らくきっとそういうことなのだと思う。自分以外のために生きてこそ、本当の意味での譲歩とか妥協とかを覚えていくのだと思う。友達も、その日傷つけてしまったキャッチの人も、人間に成った側の人間なのだろうな。私とは違って。

くしゃみをすると結構疲れる。普段使わない筋肉を使っているような気がする。たまに何回もくしゃみが出るときがあって、反射的に出るものだから止めようがなくて困る。帰り道、駅の階段を登っているときにくしゃみをしたら左ふくらはぎがつった。私という人間は、一体どういう構造をしているのだろう。そんな疑問で頭がいっぱいになった。