金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

溶けない雪だるま

子供のころ、白い犬と暮らしていた。当時の私はまだ8歳くらいで、その犬は私を下に見ているようだった。私はよく噛みつかれていて、1度大喧嘩したときにできた傷が今でも左足のくるぶしに残っている。多くの人は犬に噛まれた経験を嫌な思い出として記憶していると思う。けれども私は楽しかった思い出として大切に記憶している。今はもうその白い犬はいないけど、靴下を履くときに見えるくるぶしの傷跡は、今でもあの頃の記憶を思い出させる。一緒に暮らせて楽しかったよね、みたいな感じで。

子供のころに住んでいた私の家は、山の麓あたりにあったからか冬になると雪が積もることが多かった。頭があまり良くなかったうちの犬は、雪が積もると家の庭をよく走り回っていた。その姿を見た母は「おてんば過ぎて困っちゃうなあ」と言って笑っていた。その犬と同じように頭があまり良くなかった私は、おてんばという言葉の意味も分からないまま「本当だね」などと適当なことを言って母と一緒になって笑った。言葉は適当だったけど楽しいと感じていたことは本当だった。母がいて、犬がいて、雪が積もっていることが嬉しかった。

それから私は外に出て、犬と一緒に雪が積もる庭で遊んだ。走り回る犬に雪玉を当てたり、犬と一緒に雪の上を転がったりしてズブ濡れになった。ふと窓から家の中を覗くと、テレビを見ていた兄が一瞬こちらを見た。数秒目が合ったけど、兄はまた何事もなかった様に視線をテレビに戻した。犬はハアハアと白い息を吐きながら尻尾を振っていた。

兄が外に出てこないときはひとりで雪だるまを作ることもあった。15センチくらいの小さな雪だるま。雪玉を2つ重ね、上段には小石で目を作り、下段には木の枝を左右に刺して腕にした。何の変哲もないよくある雪だるまだった。家の中に入れるとすぐ溶けてしまうから、庭のどこかに置いておくことが多かった。それでも次の日には溶けてしまって、小石と木の枝は残りそうなものだけど、雪だるまが置いてあった場所には何も残されていなかった。

あの日作った雪だるまは、きっと今の私なのだと思う。幼い私によって作られ、幼い私の思い出たちを眺めている。けれども私は雪だるまのくせに、溶けないまま今もずっとここにいる。小石ではない目がちゃんと付いていて、木の枝ではない腕が生えている。無かったはずの足だってある。贅沢な雪だるまだ。

当時住んでいた家は両親が売り払ってしまった。白い犬もいなくなってしまった。永遠に同じ雪が積もり続ける場所なんて存在しない。だけど思い出は今も残っている。私は溶けない雪だるまだ。