金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

ここを歩いてもいい理由

近所の病院ではワクチンが打てなかったので隣町の病院まで行ってきた。距離としては遠くないけど電車の乗換があって行くのが面倒だった。

奇遇にも乗換のために降りた駅が母校である大学の最寄駅だった。駅近くのキャンパスには大きい図書館があって、卒論を書いていた時期によく来ていたのだった。頻繁に通っていた訳ではなかったから思い入れとかは特に無かったけど、それでもすごく懐かしく思えた。

せっかくなのでキャンパスの前まで行ってみることにした。歩いて10分くらいの距離。すれ違う若い学生さんたちはおそらく後輩たちだろう。楽しそうにお喋りしながら歩いている学生さんたちを眺めながら、こんな先輩のようになってはいけないよ、と心の中で唱えた。すれ違う彼らには無限の可能性があるような気がした。同時に、私にはここを歩いてもいい理由がひとつも無いような気がした。キャンパスの前に着いて、中を覗いていこうかとも思ったけど、そのまま引き返すことにした。

若いときの苦労は買ってでもしろ、みたいな話をしている人をたまに見かける。諺だか何だか知らないけど、その人は若いときにどんな苦労をしてきたのだろうといつも思う。私は10代のころに高校を中退し、その後アルバイトをしながら大学に通った。通信制の大学だったけど、4年で卒業できたことは自分でもよく頑張ったなあと思う。学費も生活費も自分で稼いだお金でやりくりしていたから毎日しんどかったのは確かだけど、苦労したとは思っていない。何らかのツケが回って来たんだなという感覚だった。

もしもこの経験を苦労と呼ぶのであれば、同じことを誰かにやれと薦めることはできない。辛い思いなんかしない方が良いに決まっているのだから、苦労は買ってでもしろ、と言うおじさんやおばさんたちの考えがよく分からない。

私は自分より若い人に対する信頼のハードルが低い。簡単に信じてしまう癖がある。それは、その人が私の年齢に至るまでの数年の間に、私を超えていく可能性が高いからで、或いは、出会った時点で私の能力がその人以下だったとしたら、一生越えることができない壁みたいなものを感じるからである。私よりも若いという点では永遠に彼らのほうが優れている。お互いに生きてさえいれば、そのことが変わることはあり得ない。だから敬意を払いたいと思う。

あとは実兄や先輩たちに良くしてもらったという経験を若い世代に還元したいという気持ちもある。私は学校生活に馴染めなかった残念な人間であり、かつ体育会系の出身でもないため、一般的な上下関係のイロハがよく分かっていない。そのように生きてきてしまったから、私の考えかたは一般的なそれとは少し違うのかもしれない。

でもそこはこれからもブレずに生きていきたい。若いときの苦労は買ってでもしろ、なんて恥ずかしいことを言う老害にはならない。