金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

動き出す誰かとそれを見る私

個人的な部分について、変えられるものと変えられないものがあると思う。もっぱらの努力は前者に注がれるべきだとは思うが、私の場合は後者に集中してしまうことが多い。典型的な「無駄な努力」である。

自分と他者との比較はしないほうが無難ではあるがしても良いと思う。そうしたいと思う個人がいるのであればむしろやったほうが良いと思う。動き出す誰かを追いかけることも、追いかけずに見送ることも、何をするにしても個人の選択は自由である。

私は歩くのがとても遅い。前を歩く人の後ろ姿を見る機会が多いから、どちらかと言えば見送るほうが性に合っている。だから動き出す誰かを追いかけることができなかった。見送る訳でもなく、ただ眺めることしかできなかった。何も考えることができなかった。

兎と亀の昔話があるように、歩く速さの問題ではなく、歩み続けることが重要なのだと感じる。子供のころに読んだときは、兎さんよりは亀さんのほうになりたいな、などと思っていたが、残念ながらそのどちらにもなれていないのが現実である。そもそも兎になる努力も亀になる努力もしていない。

兎に追い抜かれた亀の焦燥を想像できていなかった。勝ち負けを考えず、目標に向かって歩き続ける亀の勇気を理解できていなかった。油断して亀に追い抜かれてしまった兎の気持ちを考えることができなかった。速い脚を手に入れるために重ねられた兎の鍛錬を知らなかった。

子供のころと同じように彼らを傍観してばかりいる。そろそろ私も歩いていかなければならない。兎としてではなく、亀としてでもなく、人として歩き始めることにしたい。もう間に合わないような気がするのは事実だけど、せめてほんの少しでも距離が縮まるのであればそれはそれで充分だと思う。

変えられないかもしれないけどまだ変えられるかもしれない。やってみて駄目だったらそれはそれで無駄なことではないと信じている。また徒労に終わっても別にいいや。直感を信じよう。