金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

新しい諺

焼け石に水」とか「捕らぬ狸の皮算用」など、そもそもが無意味であることを表す諺がある。考えたのは昔の偉い人だろう。その言葉たちが今でも使われ続けているという事実は、多くの人たちの共感があってこそだと思う。実際に私も言い得て妙だと感心することが多い。

最近思うことと言えば、昔なりたくなかった大人になりつつあるという危機感である。事も有ろうに、この間もキャバクラで説教をしてしまったのだった。しかもその時はあまりお酒を飲んでおらず、ほぼシラフの状態でそういう感じだったので、いよいよ終わっているなと感じた。本当に反省しかない。絶対に良くなかったと思う。

私が説教してしまったその人は、苦労人というスタンスで話をしていた。借金(奨学金とのこと)の返済が苦しく、生活のために水商売を始めたと言っていた。日常的にお金に困っているらしく、日々後ろ向きな気持ちになってしまうことを嘆いていた。

正直なところ話題なんて何でも良かったし、その話が嘘でも本当でもどっちでも良かった。だけど、自分だけが不幸な目に合っている、と言わんばかりの雰囲気が(その時の)私にとっては物凄く鼻についたのだった。

1番の反省は、明らかに不機嫌な態度を取ってしまったことだ。挙句「そのマインドは変えるべきだ」とか「もうちょっと場を弁えた話題があるだろう」みたいなことをひたすらに説こうとしてしまった。結局、私の言葉は何一つ相手に響いている様子はなく、話は平行線のまま時間だけが過ぎ、その席は解散となった。誰の得にもならない時間を過ごしたのは本当に久しぶりだった。

もし仮に「キャバクラで説教」という新しい諺を発信できるのだとしたら、ビジネスにおけるルーズルーズ(lose-lose)の状態を表す諺として世に放ちたい。お互いにずっと負けっぱなし。お金と時間を浪費するばかりで生み出されるものは何一つなく、目に見えない大切な何かをお互いに削り合うだけの空間。言うなれば「骨折り損のくたびれ儲け」の現代版という位置付けとしたい。

この記事を書いてみて、やはり昔の偉い人には敵わないなと思った。彼らが考えた言葉たちからは凄みのようなものを感じる。無駄がなく洗練されているようにも感じる。共感と尊敬の想いを込めつつ、今後も彼らの言葉たちを使わせていただこうと思う。