金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

おじいちゃんと私

私はおじいちゃんに会ったことがない。父方のおじいちゃんも母方のおじいちゃんも私が生まれる前に亡くなっているからだ。写真でしか彼らを見たことがない。厳密には母方のおじいちゃんには会ったことがあるらしいのだが、物心が付く前のことなので全くもって記憶がない。父方のおじいちゃんに関しては写真で見たはずの顔が思い出せない。

一方でおばあちゃんたちにはよくしてもらった。両親が共働きだったため幼い頃から面倒を見てもらっていた。うろ覚えだが、そのときにおじいちゃんの写真を見せてもらっていたのだと思う。カラーの写真は少なく、白黒の写真ばかりだった。

不思議なことに、私はおじいちゃんたちに会ってみたいと思ったことがない。存在としては当然認識してしているが「会う」という行為に対してのモチベーションはほぼ無い(そもそも会うことは出来ないのだけれども)。

あるとき、おばあちゃんが大切に思っていた人はどんな人だったのだろう?と考えたことがあった。すぐ諦めてしまったことは言うまでもなく、その答えを導き出せたとしても、実際に会って確かめることができないことを知っていたからである。どちらのおじいちゃんも子沢山だったから、健康的で、真面目で、よく働く、概ねそのような人だったのだろうと推測している。

おじいちゃんと仲が良い人の話を聞くと少し羨ましくなる。単純にどんな感覚なのだろうと思う。おじいちゃんにまた会いたい、会いたくない、という選択肢を持つことさえできなかった。だけど、そのことに対しての寂しさは特に無く、それが当たり前だと思っているから案外平気だ。1が0になったのではなく、もともと0のままだから。少し損をしている、と言われれば、まあそうなのかも知れない。

という考えをおじいちゃんたちが知ったら、彼らはどのように反応するのだろうか。万が一にもあり得ない想像ではあるけれど、たぶん笑ってくれるんじゃないかなと思っている。もしも私がおじいちゃんの立場だったら、孫の存在自体が嬉しくて笑ってしまうような気がするから。

そのような考えでいるため、おじいちゃんたちは天国で笑っていると信じている。別に会えなくたって問題は無い。損をしているのだとしても構わない。おじいちゃんと私の関係性はそのような感じ。割と気に入っている。