もう充分だと思ってしまうことがある。やり残していることが山ほどあるはずなのに今日で終わりでも別に良いやと思う、もう沢山かもしれないなって。
理由については自分でもよく分からない。思い当たる節と言えば学生時代にカート・コバーンに憧れていたことくらいだ。だから短命であることに格好良さを覚える駄目な大人になってしまったのかもしれない。たが決してカート・コバーン氏のせいにしている訳ではない。この件に関する全ての責任は言うまでもなく自分の中だけにある。このことは明示的に書いておくことにする。
人間は80歳までしか生きられないと聞く。日本にいるとまあそうなんだろうなと思える。なんならもっと長く生きれるんじゃないのか?とさえ思えてしまう。でも自分がそうなりたいとは全く思わない。それが本当に幸せなことなのかがよく分からないから。
まもなく2023年の8月が終わっていく。勢いが弱まっていくであろう太陽の光を浴びて、雑草は未だすくすくと育つ。たまに注意して目を向けると、小さい花のようなものを咲かせている。都会にいるとその姿さえ癒しのように感じる。
自分は雑草にはなれない。物理的にもそうだし概念としてもそうである。同じように太陽にもなれない。いよいよ自分がどうなっていくのかが分からなくなる。そもそもどうなりたいのかもよく分からない。
久しぶりに NIRVANA の音源を聴いてみる。当時も概ね今のような気持ちで聴いていたことを思い出した。彼らの音楽が変わらないことは当たり前だった。同時に何ひとつ変わっていない自分を自覚するばかりだった。ただしそのことは嬉しく感じられた。少なくとも今だけは無敵であり、何よりも自由であると思えた。
自分は雑草にも太陽にもなれない。でもスターを取ったスーパーマリオのようにはなれるような気がした。キラキラとした姿で、誰よりも速く走り抜けることができるような気がした。また今回も音楽に助けられてしまった。もうちょっとだけ頑張ってみようかなと思えた。