金曜の夜は別の人になりたい

人生は割とへっちゃら

20240304

こんな気持ちでいて本当にいいのかなと思う。まだ桜は咲いていないから流石に春はまだ来ていない。けれども私は、まもなく夏休みが終わるような、憂鬱で前向きな秋の訪れを感じている。

春前のような清々しい気持ちは全くない。花たちが咲き騒ぐのを見ながら出会いや別れのひとつひとつに反応する余裕は1ミリもない。私は秋が好きだ。枯れ葉の落ちる歩道を早く歩きたいだけだ。

こんな気持ちでいいのかなと思う。季節感もなければ曜日感覚もない。気になることと言えば、朝なのか夜なのかとか、寒いのか寒くないのかとか、それくらいのことだ。

上席の上席から連絡があって、今月中に面談をしたいのことだった。リモートではなく対面で面談したいのだそうだ。割と偉い人みたいだけど、会って話さないダメだ的なことを考えていそうな世代の人っぽいから面倒くさい感じがする。既に分かり合えない気がしている。

対面だろうが対面じゃなかろうが、気持ちが伝わらないことの落ち度は自分自身にあると私は思う。全てリモートのせいにして、自分の能力や物事の本質を見ない人間が組織の上のほうにいるのかと思うと、なんか色々なことを間違えてしまったような気持ちになった。その人にとって不成功体験をお届けすることになりそうだけど私は何も悪くない。

その日の帰りは何を食べて帰ろうかな、みたいなことを真っ先に考えてしまった。こんな気持ちで良いのかなと思うけど、まあ悪くはないと思う。やっぱりラーメンが良いかな。カレーなんかも、悪くはないよな。

ハングリーふりかけ

宝探し

その人にとって、自分の部屋にいるときと同じような居心地の良さを感じさせるような人間になりたい。そうなれるように色々な試行錯誤してみるけど、1番大切なことは、できるだけ多くの時間を一緒に過ごすことなんじゃないかなと最近は思う。そこにいやらしい意味はなくて、でも少しエッチな期待はあって。そうやって明日に夢を見ながらこれからも生きていくのだと思う。

まるで宝探しみたいだと思う。そもそもそこに何があるのかがよく分からないから。何かが見つかったらラッキーみたいな感じで、手探りのまま進む。手探りという言葉もまた、少しエッチだと思う。

冷たいコーヒー

が好きな訳ではないけど、喫茶店とかに行ったときにはアイスコーヒーを頼むことが多い。理由は味の薄いコーヒーが好きだから。本当はアイスコーヒーを冷やす氷が全部溶けたら飲みたいくらいだけど、時間が掛かりすぎるからやらない。ホットコーヒーに冷水を入れて飲むほうが良いのかな。

最近、BUMP OF CHIKENのベンチとコーヒーという曲を思い出す日があった。この曲にも冷たいコーヒーの話が出てくる。ある男がベンチに座ってコーヒーを飲んでいる。目の前を通り過ぎる人たちを眺めつつ考えごとをしていたら、あったかいコーヒーが冷めちゃった的なことが歌われている。歌の中の男は、誰かにちょっと良いことが起こるように祈っている。そんな日が私にもあったのだった。

piatdeisui.hatenablog.com

ハンバーグふりかけ

正月に帰省したときに、地元の洋食屋さんで「ハンバーグふりかけ」なるものが売られているのを見かけ、珍しいから購入してみたのだった。味のほうは、デミグラスソースをご飯にかけて食べているみたいな感じで、ちょっと貧乏な味がして美味しかった。忘れかけていたハングリー精神が蘇ってくるような感覚があった。

上京したばかりのときは本当にお金が無かった。ご飯にめんつゆをかけたヤツとか、小麦粉を水で溶かして焼いたヤツとか、名前を付けるに値しないような貧乏飯ばかり食べていた。ハンバーグふりかけは、そのころの気持ちを思い出させるような味がした。なので私は、このふりかけを「ハングリーふりかけ」と呼ぶことにした。

隙あらば助けて

若いことは良いことだと僕は思う。明日の僕よりも今日の僕のほうが少し若い。だから今日の僕はちょっと良いはずだ。

年齢だけを考えるのであれば、先に生まれた人のほうが歳を取っているし、後に生まれた人のほうが歳を取っていない。両者が生きている限り、後者の年齢が前者の年齢を上回ることはない。1年でも1か月でも1週間でも、後に生まれた人間のほうが若い。

現時点で僕に出来ることは、僕よりも若い人には出来ないことかもしれない。現時点で僕に出来ないことは、僕よりも年上の人になら出来ることかもしれない。出来ないことが出来るようになる可能性を若さと呼ぶなら、僕よりも若い人のほうがより優れた人間になれるチャンスは多いと思う。

既に僕よりも若くて優れた人間が多く存在していることを考えると、僕に出来ることなんて何もないような気がする。僕より年上の人も、このような不安を抱えているのだろうか。既に超されているという浅い敗北感を。

人生に勝ち負けという概念は無いと僕は信じている。信じてはいるけど、実態としては在るような気がしている。その事実に直面したときに負けた感を感じてしまうから。でも僕は負けたからと言って腐る訳ではない。

僕は自分より若い人間を信じている。新しい時代を作るのは僕ではなく彼らだから。受け入れるのに少し時間が掛かることもあるけど、彼らに負けることは然るべきことだと考えている。僕を踏み台にして欲しいし、邪魔だったらその辺に捨ててもらっても構わない。何かに繋がるのであればそれだけでいいし、繋がらなくてもそれはそれで問題はない。

だからいつか助けて欲しいと思う。彼らにはもっともっと優れた人間になってもらい、将来どん底にいるであろう僕を救い上げて欲しいのだ。底にいる僕は地上に向けて手を伸ばす努力を続けているだろうから、隙あらばその手を掴んでいただき、グイッと持ち上げて地上に逃して欲しい。もちろん可能であればで問題はない。基本は自分でなんとかするから。

若いことは良いことだと思う。僕も底にいる誰かを救い上げることができるのだろうか。可能性はまだ残っているのだろうか。

君はいつも道路の真ん中を走る

自宅を出てすぐのところに大きめの道路がある。私はいつもその道路を歩いて駅やスーパーに向かう。片側一車線の車通りが少ない静かな道路だ。

その道路を歩いているときに最近よく見かける人がいる。その人はいつも道路の真ん中を走っている。歩道があるのにも関わらず、その人は道路の真ん中を走っている。バイクにも自転車にも乗らず、ナチュラルに車道の真ん中を走っている。

その人は少し太った男性である。肩まで伸びた髪を耳にかけ、無精髭を生やしている。いつも動きやすそうな格好をしていて、ジャージやパーカーなどを着ている。独特の雰囲気を漂わせており、良くも悪くも只者ではない感じがする。

彼はいつも一心不乱に道路の真ん中を走っている。だが決して速くはなく、後ろから車が来たらヤバいんじゃね?と見ていて不安になる。そして何故か、私が見かけるときには前からも後ろからも車は来なくて、車が来た時に彼がどうしているのかはよく分からない。何度も見かけているから車に轢かれることはないのだろうけど、彼が車を避けているのか、車が彼を避けているのか、については謎である。もしも後者だったら少し面白いなと思っている。

最近では彼のことを少し格好良いと思い始めている。どうしてそう思うのかを考えてみたところ、やはりブレない姿勢に尽きると思う。あとは何気に命懸けであるところもそう。車に轢かれる可能性が高いのに、そのリスクを省みず、彼は道路の真ん中を走っている。新手の自殺行為なのかもしれない、と考えるとアバンギャルドすぎてエグい。佇まいとしても、全盛期を過ぎて少し太ってしまった往年のロックスターのようにも見えてくる。年代でいうと80年代後半くらいアメリカのバンドを想起させる。エレキギターの速弾きが得意そうだ。

なかなか彼の真似はできない。車に轢かれる可能性だけでなく、迷惑行為で通報されてしまう可能性だってあるのだから。守るものなんて何も無いのだ、と言わんばかりの姿勢は素晴らしいと思う。その姿勢だけは見習いたいなと思いながら、今日も私は歩道を歩いている。守るものが何も無いのは彼と一緒だけど、私は明日も歩道を歩くだろう。歩道の真ん中ではなく、片側に寄って歩くだろう。

20240226

2020年以降の私は何も進展していない。コロナのせいにしているけど実際は全部自分のせいだ。

2020年2月ころ、関西に出張に行く機会があった。そのときはまだコロナの規制は緩かったんだけど、出張にいく人は最小限の人数に絞ろうという話になり、私はその人柱に選ばれてしまった。どの店に行ってもマスクが売り切れていたからか、会社から数枚のマスクが支給されたことを覚えている。1週間くらいの出張だったから数枚のマスクじゃ足りなくて、残りの日数はどうすれば良いのだろうと不安だった。運良く出張先のホテルのアメニティに無料のマスクがあったら大丈夫だったけど、あの出勤は断っても良かったんだろうなと今になって思う。その2ヶ月後にはフルリモートでの勤務に変わったのだから。

こんなに働きかたが変わるなんて思っていなかった。家で仕事をするなんて想像もできなかったし、絶対サボってしまうだろうという自信しかなかった。でも意外と順応できたことは、今より少しだけ若かったからできたことなのかもしれない。

この頃から独立のことを考え始めていた。昇進とか組織力強化とか人材育成とか、そんなん知らんしって話がチラホラされるようになっていて、なんとなく会社員という立ち回りに限界というか、しんどさみたいなものを感じ始めていた。コロナ禍じゃなかったら独立してたんだけどな、と思うけど、もしも本当にコロナ禍じゃなかったら、私は一体どうしていたのだろう。

そのときに独立していたとしたら今年でもう3、4年経っていたはずだ。ここ最近の数年間は本当に空っぽだったように感じる。貴重な時間を無駄にしてしまったような気がしている。多くの場合、意味は後付けできるものだとは思っているけど、この期間には何の意味も付けられそうにない。

コロナ禍の時間でだいたい400本くらい映画見ましたね(笑)とか言って笑い話にしてるけど、実は全然笑えないんだよな。しかもその400本のうち本当に感動した映画は2、3本くらいしかなかったし、本当に本当の暇つぶしでしかなかったんだよな。

あのときは先が見えなさすぎて動くのが怖かった。今よりもっと何も考えてなくて、ほとんど別人だった。全て自分のせいだ。

そのようなことを考えながら電車に乗って音楽を聴いていた。iPhoneに入っている音楽アプリをランダム再生で。そのときにふとThe KillersのDying Breedが流れて来た。

君が僕に何を求めているのかが分からないし、時々どうしていいか分からなくなる。足掛かりがなかっかたらどうするつもりだった?僕は自分がした約束を覚えているよ。自分が落ちてしまった理由もね。必要なものはそろっているよ。僕たちは廃れていくだけの種族だ。

私は泣きそうになってしまった。気付かなかったけど、電車の外を見たら良い天気だった。音楽も良い天気も味方してくれているような気がした。ぐずぐずしているだけでは駄目だなと感じた。

君の嘘が好きだよ

布団の中にいる

外は明るくなり始めたけどまだ常夜灯が光っている。昨晩消し忘れたのだと思う。でもLEDの電球だから寿命は長いはずだ。付けっぱなしにしていても誤差程度のものだろう。自分自身に言い訳をしている僕は一体誰と戦っているのだろう。

早く春が来れば良いのになと思う。例年に比べると暖冬だとは思うけど、布団から出れないことはそうだから早く暖かくなって欲しい。何をするにしても布団から出ないとできない。できること言えばブログを書くことくらいで、だから僕は今これを書いている。

もしも僕が神様だったら

楽しいときもそうでないときも、時間は平等に流れている。楽しい時間は流れるのが速くて、楽しくない時間は流れるのが遅い。逆だったら良いのになと思う。1秒間に心臓が動く回数で体感速度は変わるから、緊張状態だと心拍数が上がって云々、みたいな話を聞いたことがあるけど、詳しいことは分からない。

もしも僕が神様だったら、楽しい時間の体感速度をやや遅くし、辛い時間は2倍速にしたい。僕がなれそうな神様と言ったら、恐らくエゴの神様くらいだけど、それでもそんな神様人生の全てを費やし、実現のためには何でもやりたいと思う。そしてそれは自分のためだけではなくて、全人類のために何とか善処したい。

楽しい時間の体感速度がやや遅くなるように、いっそ人間のDNAに直接書き込んでしまおうと考えている。そのためにはDNAに詳しい神様に直接会いにいって協力を仰ぐだろうし、必要に応じて頭も下げたい。偉い神様たちに事情を説明し、様々な申請や稟議を通したい。それくらい建設的に進めていきたい。

あいらいくゆー

Netflixで「時をかけるな、恋人たち」というドラマを見た。本編はまあまあだったけどエンディング曲は最高だった。Chilli Beans. というバンドの I Like You という曲。

片想いの歌なのだろうか。それとも恋人に振り回されている人の歌なのだろうか。いずれにせよ歌詞にはすごく共感できた。「君の嘘が好きだよ」だなんて、なかなか言えることじゃないから、それなりに沼っているんだなあと思った。嘘は嫌いだけど好きな人の嘘だったら別に良いやと僕も思える。でもそれは辛いことだったりもするから、結局はダメになることが多い。

YouTubeでミュージックビデオを繰り返し見ているうちに音源が欲しくなって、この1曲のためだけにアルバムを買ってしまった。それくらい好き。めっちゃ良い曲だと思う。

ここを歩いてもいい理由

近所の病院ではワクチンが打てなかったので隣町の病院まで行ってきた。距離としては遠くないけど電車の乗換があって行くのが面倒だった。

奇遇にも乗換のために降りた駅が母校である大学の最寄駅だった。駅近くのキャンパスには大きい図書館があって、卒論を書いていた時期によく来ていたのだった。頻繁に通っていた訳ではなかったから思い入れとかは特に無かったけど、それでもすごく懐かしく思えた。

せっかくなのでキャンパスの前まで行ってみることにした。歩いて10分くらいの距離。すれ違う若い学生さんたちはおそらく後輩たちだろう。楽しそうにお喋りしながら歩いている学生さんたちを眺めながら、こんな先輩のようになってはいけないよ、と心の中で唱えた。すれ違う彼らには無限の可能性があるような気がした。同時に、私にはここを歩いてもいい理由がひとつも無いような気がした。キャンパスの前に着いて、中を覗いていこうかとも思ったけど、そのまま引き返すことにした。

若いときの苦労は買ってでもしろ、みたいな話をしている人をたまに見かける。諺だか何だか知らないけど、その人は若いときにどんな苦労をしてきたのだろうといつも思う。私は10代のころに高校を中退し、その後アルバイトをしながら大学に通った。通信制の大学だったけど、4年で卒業できたことは自分でもよく頑張ったなあと思う。学費も生活費も自分で稼いだお金でやりくりしていたから毎日しんどかったのは確かだけど、苦労したとは思っていない。何らかのツケが回って来たんだなという感覚だった。

もしもこの経験を苦労と呼ぶのであれば、同じことを誰かにやれと薦めることはできない。辛い思いなんかしない方が良いに決まっているのだから、苦労は買ってでもしろ、と言うおじさんやおばさんたちの考えがよく分からない。

私は自分より若い人に対する信頼のハードルが低い。簡単に信じてしまう癖がある。それは、その人が私の年齢に至るまでの数年の間に、私を超えていく可能性が高いからで、或いは、出会った時点で私の能力がその人以下だったとしたら、一生越えることができない壁みたいなものを感じるからである。私よりも若いという点では永遠に彼らのほうが優れている。お互いに生きてさえいれば、そのことが変わることはあり得ない。だから敬意を払いたいと思う。

あとは実兄や先輩たちに良くしてもらったという経験を若い世代に還元したいという気持ちもある。私は学校生活に馴染めなかった残念な人間であり、かつ体育会系の出身でもないため、一般的な上下関係のイロハがよく分かっていない。そのように生きてきてしまったから、私の考えかたは一般的なそれとは少し違うのかもしれない。

でもそこはこれからもブレずに生きていきたい。若いときの苦労は買ってでもしろ、なんて恥ずかしいことを言う老害にはならない。